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2010-01-09

久しぶりの網野先生

『もののけ姫』をテレビで見た(公開当時、映画館で鑑賞済)。
こんなに重い映画でしたっけ(その意味で、よく大ヒットしたものだと…)。
けっこう鳥肌が立ちましたが。

で、思い出したのが網野先生。
確か文章があったはず、とパンフレットを引っ張り出した。

以下、そのパンフレットより。引用長くてすみません。

「自然」と「人間」、二つの聖地が衝突する悲劇
網野善彦(歴史学者)

 この映画の主題は深刻で、簡単に解決出来ない問題が取り上げられていると思います。その意味で歴史の事実と関連させて何かを言えるような作品ではない、というのが私の率直な感想です。

(中略)

 自然と人間の関係の持つ深刻な矛盾を、宮崎さんはアニメーションであるが故に可能な手法で、思い切って問題提起されたのだと思います。映画の最後で「生きる」ということに触れておられますが、「生きる」ことは、何かを殺すことでもある。そういう意味で、人間が背負っていかなければならない問題を、正面からつきつけている映画だという印象を受けました。

(中略)

 人間の歴史は後戻りはできません。とにかく前に進むためには自然からさまざまなものを獲得し、そのために何かを殺し、犠牲にして人間は生きてきたわけです。そうすれば人間はますます豊かになり、すべてうまくいくとうことにこれまではほとんど疑いを持たなかった。しかしその結果として、自然からの復讐をうけはじめているいま、われわれはそうした生き方を根本から反省せざるを得なくなっている。これまで生きて前進してきた過程で、自分たちが一体、何を殺し、何を切り捨ててきたかをいうことを真剣に考えなければならなくなっているわけです。しかし自然はそんなにヤワなものではありませんから、殺しても殺しても生き返る強靭な生命力を持っている。人間自身もそれは同じだというのがこの映画の「結論」なのではないでしょうか。

(中略)

 人間にとって救いの場として設定された人為的なアジール(引用者注:映画におけるタタラ場)が、本来その根源であったはずの自然のアジール(引用者注:シシ神の森)と衝突せざるを得ないということは、これまで程度の生き方ではわれわれ人間にはもはや救いがないということを意味します。いまや本当の人間らしい生き方は何かを、われわれは自分たちの頭で考え、生活そのものの中で追求しなければなりません。バブルが崩壊し、人間と自然との関係が深刻な事態になっている現在、この映画を宮崎さんが作られた意味はそこにあるのだと思います。その意味で非常に現代的な映画だと思います。自然のアジールと人為的アジールがぶつかり、それぞれに傷を負い破綻する。しかしなおそれを越えるものがありうるのだということを宮崎さんは仰ろうとしたのだと思います。

 もう一つ深読みをすれば、「ヤマト」では解決できないということですよね。この場合の「ヤマト」は国家、「日本国」のことです。「日本国」という国家はさまざまな問題を非常に割り切った形で解決しようとしています。宮崎さんはそういう割り切り方では、今、我々がぶつかっている大きな問題を解決しえないということを仰りたかったのではないでしょうか。と同時に、そうした国家の割り切り方に安易に従っていることがどんなに危険で怖いことなのかについても、警鐘を発しておられるのだと思います。

 そう考えてみますと、二人の女性、女神の戦いに、日本国-「ヤマト」の外部のエミシが調停役に入り、将来に希望を見いだそうとしている設定も、非常に面白いと思います。

映画・パンフレットとも、COP10開催に浮かれている関係者にぜひ観ていただきたい。

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